COLUMN

第552回 お絵描き〜マンガ

 3歳の頃の積み木話のついでに4〜5歳の話。幼稚園に入ると、まあ普通にアニメも特撮も観てたし、普通に絵を描くことが大好きな子どもに仕上がっていたと思います。卒園アルバムに先生より「伸くんはとても絵が上手で」云々書かれていたということは、そこそこ評判がよかったんでしょうが、その頃から自分は人に褒められるのが苦手で「こんなモン誰でも描けるて(やや名古屋弁)」といつもはぐらかしていたのを憶えてます。それに、その頃の自分の将来の夢は「電車運転士」か「大工さん」。運転士というのは単に電車が好きだったから。夏休み・冬休みに両親の実家、山形へ家族で遊びに行く際、電車の迫力に圧倒されて「カッコいい!」と。大工はと言うと、当時「一軒家」の絵ばかり描いていたため、母親が幼稚園の先生との面談で「この子は大工さんになりたいらしい」と言ったことに端を発します。当時ウチの家族がアパート住まいだったせいか、自分はただただ憧れの一軒家を描いて喜んでいたんでしょう。それだけなのに母親から大工というワードが出てきて「僕が大工さんになったら、お母さんは嬉しいだろう」と素直に考えて、将来の夢ランキングに入れていたのです。子どもというのは、やっぱり親を喜ばせたいものなんだと。つまり、幼稚園まではいくらお絵描きが好きでも、それを仕事にする気はまったくありませんでした。ウチは両親とも、好きなことや特技を生業にしてたわけではなく、もちろん自営業や社長でもなく、ごくごく普通のサラリーマンとパートで生計を立てていて、けして高給取りではありませんでした。なので、

「働く」とは好きなことで食っていくことでもなければ、
ガバガバ儲けることでもない!

と植え付けられており、親戚のおばさんとかに「伸ちゃんは大人になったら絵描きさんになるの?」と本当によく訊かれたんですが、その都度、

と無愛想に返していました。
 そんなひねくれた板垣に「マンガを描いてみたい!」と思わせる出来事が1979年に起こったのです。この年に

藤子不二雄先生の『ドラえもん』!

の放映が開始されたのです。あくまで「藤子不二雄」! まだF先生とA先生の区分けがなかった頃ですから。この『ドラえもん』はもちろんシンエイ動画版。1973年の日本テレビ版の放映時は、まだ自分は生まれてません。そのシンエイ版『ドラえもん』はおそらく初めて「原作とアニメ」の関係を意識した作品で、マンガ原作を買いそろえたのも初めて。当然、姉と半分ずつお年玉で。だから気になったんです。

2人で1人のマンガ家・藤子不二雄が!!