SPECIAL

【ARCHIVE】 「この人に話を聞きたい」
第34回 片渕須直


●「この人に話を聞きたい」は「アニメージュ」(徳間書店)に連載されているインタビュー企画です。
このページで再録したのは、2001年8月号掲載の第三十四回のテキストです。





学生時代に『名探偵ホームズ』で脚本デビューして以来、『名犬ラッシー』監督、『MEMORIES』の「大砲の街」技術設計、『魔女の宅急便』演出補、等々。様々な作品で素晴らしい仕事を残してきたものの、自分自身の作品をまとまったかたちで発表する機会が無かった彼が、初めて企画段階から中心になって作り上げた作品が、今月公開される『アリーテ姫』だ。たっぷり時間をかけ、物語やテーマに関して考えに考え抜いて作られた、清々しくも明瞭で、若い観客の心に直接訴えかける内容のアニメーション映画である。1960年代の東映動画長編を思わせる、漫画映画的なテイストを巧みに取り入れている事にも注目したい。




PROFILE

片渕須直(Katabuchi Sunao)

 1960年(昭和35年)8月10日生まれ。血液型A型。大阪府出身。日本大学芸術学部映画学科へ入学、アニメーションを専攻。在学中に『名探偵ホームズ』に脚本、演出助手として参加し、卒業後、テレコム・アニメーションフィルムに入社。『LITTLE NEMO』の準備段階で、高畑勲監督の演出助手、近藤喜文監督の演出補佐、大塚康生監督と共同監督を務める。その後、『魔女の宅急便』に演出補として、『MEMORIES』の「大砲の街」に演出・技術設計として参加、初監督は名作劇場『名犬ラッシー』。他の代表作に『若草物語 ナンとジョー先生』(絵コンテ)、『あずきちゃん』『ちびまる子ちゃん』(演出・絵コンテ)等がある。最新作は、初の劇場監督作品『アリーテ姫』が公開される。

取材日/2001年5月31日 | 取材場所/東京・吉祥寺 | 取材・構成/小黒祐一郎





―― 最近、片渕さんは「ポスト宮崎駿」みたいに扱われる事が多いじゃないですか。でも、僕は単純に「宮崎さんと一緒に仕事をしてきたホープ」として扱うのには抵抗があるんですよ。そうすると、それだけの人見たいになってしまうから(笑)。

片渕 確かに『アリーテ姫』関係の記事では、そういう風に扱われる事が多いんだけど。そういう注目のされ方は仕方ないです。今、日本のアニメーションが「スタジオジブリの作るものか、そうじゃないアニメーションか」という感じになっちゃってるわけだから。

―― 観客の意識として?

片渕 そう、意識として。ただ、「他の制作会社からも『アリーテ姫』みたいな作品が出てくるんだ」と観客に思ってもらう事が、日本のアニメーションのためにも必要な事だと思っているんですけれどね。大げさに言えばね。

―― それじゃあ、片渕さんがどういった人か分かってもらうためにも、今までの歩みを振り返ってみる事にしましょう。そもそも、アニメの仕事を志されたきっかけというのは?

片渕 そこで、すでに宮崎さんが関係しているんですけどね(苦笑)。自分が将来なんになるのか、そろそろ考えなきゃいけない時期に、宮崎さんが監督として出てこられたんです。それで、作られた作品を観て「子供の時に観ていた昔の東映動画の長編のテイストを、非常に良いかたちで受け継いだ人が出てきたな」と、そういう印象だったんです。

―― 『未来少年コナン』の時ですね。

片渕 そうです。それが高校生の時。それで、どうしてそういう気分の作品が出てきたのかという事を調べながら大学生をやっていた。
 大学では映画学科に入って、とりあえず東映動画の昔の長編からの歴史的な経過みたいなものについて、資料を漁ったりとか。

―― 学校の授業でもそういった事を学んでいるんですよね。

片渕 ええ。僕が大学で教わった先生の1人が月岡(貞夫)さんで、もう1人が池田宏さんだったんですよ。(注1)

―― 東映長編時代の大立者ですね。

片渕 池田さんの提案で、現場にいた人を特別講師として呼んで話をしてもらう事になって。その第1回として宮崎さんが大学に来たんですよ。第2回目以降の企画もあったんだけど、何となくうやむやになっちゃって。結局、宮崎さんしかお招きできなかったんだけど。

―― それが、81年ぐらい?

片渕 ちょうど、『新ルパン』の最終回が終わって、宮崎さんが休みをもらって山陰に旅行に行って帰ってきたところだったから。

―― じゃあ80年ですね。

片渕 しばらくして、池田さんから電話がかかってきたんです。宮崎さんがテレビシリーズを始めるにあたって若いシナリオライターを使う事にした。それで、特別講師で行った大学の映画学科を思い出して、何人かシナリオの勉強してる人間をよこしてもらえないか、と池田さんに言われたという事だったんです。それで、池田さんに「興味あるなら、行ってみるか」と言われて。それで、僕が「シナリオなんて書いた事ないんですが、いいんですか?」と訊くと「書いた事がある、そう言い張れ」と言われて(笑)。それで、行ったんですね。
 その時、5、6人が集められていたと思うんだけど、他は皆、実写のシナリオを勉強してる人で、自分が書いたシナリオを持ってきていたんですよ。だけど、これから書かなきゃいけないのは『名探偵ホームズ』なんですね。そういう漫画映画的なもの(注2)を書けるかどうかというのは、持ってきたシナリオからは判断できないので、とりあえず『名探偵ホームズ』のシノプシスを書いてくれと。それを読んで選抜しよう、という事になったんです。その時に、僕が書いて持っていったのが「青い紅玉」なんですよ。「青い紅玉」というタイトルは、後に宮崎さんが付けたものなんですけど。もう1人、後に「ソベリン金貨の行方」というタイトルになる話を書いた者がいまして。その2人が残ったんです。それでとりあえず、「もうちょっと、書いて持ってこい」と言われて、それで僕が書いたのが「海底の財宝」。
 当時、宮崎さんが所属していたテレコム・アニメーションフィルムで、新人を集めて文芸部を作るという話だったんです。でも、結局、僕1人しか残らなかったためなのか、文芸部を作る計画はなくなってしまったんです。そして、「どうする?」と宮崎さんに訊かれて、「僕は元々、アニメーションの演出をやるつもりだったんです。」と言ったら、「じゃあ、演出助手でくるか」という話になって、テレコムに居着く事になったんですね。それが大学の3年生の時で、僕のこの業界での出発点。

―― 学校は卒業しなかったんですか?

片渕 ちょうど佐藤順一さんが、同じ学校で1年上で、やっぱり池田さんのクラスだったんです。佐藤さんも同じような経緯で、在学中に東映動画の研修生に受かっちゃって。池田さんが引き留めたそうですけど、大学を辞めていったんです。それがあったので、池田さんに「後進のためにも、君には大学に行きながら仕事をする道を選んでほしい」という事を盛んに言われて。それで、二足の草鞋を履くかたちになったんです。
 だけど、しばらくして『名探偵ホームズ』が制作中断になっちゃうんですね。「ドーバーの白い崖」の後に「バスカーヴィル家の犬」と「白銀号事件」の絵コンテを、宮崎さんが同時に切っていて、そのAパートが終わったぐらいのところで、中断になったんです。

―― え、そんなコンテがあったんですか。その時、フィルムが完成したのは4本ですよね。

片渕 フィルムは、5本か6本じゃないかな?

―― いや、4本ですよ。「小さな依頼人」「青い紅玉」「海底の財宝」「ソベリン金貨の行方」までフィルムが完成していて、「ミセス・ハドソン人質事件」と「ドーヴァーの白い崖」は動画まで終了したんでしょ。

片渕 あ、そうだった。それで当然、その次のエピソードも進められていたんです。「青い紅玉」が3話になる予定で。それから「四つの署名」も半分ぐらいできあがったコンテがあって、それが1話になるはずだった。

―― コンテが進行中のエピソードが、いくつかあったんですね。

片渕 そもそもテレコムは、東京ムービーの社長の藤岡豊さんが、『LITTLE NEMO』という作品を企画して、それを世界に通用する劇場長編として制作する事と、そのためのスタッフ養成を目的にして作った会社だったんです。『ルパン三世』や『名探偵ホームズ』をやっていたけれど、本来は『NEMO』を作る事が目的だったんですよ。それでテレコムは次第にその準備に入っていった。ご存知の通り、『NEMO』の制作過程は複雑で……。(注3)

―― 長期間に渡って制作されて、その間にスタッフの編成が何度も変わっているわけですよね。

片渕 編成はどんどん変わっていきましたね。僕か入った最初の段階では、高畑さんが監督で準備を進めていて、僕はその時に演出助手を3週間ぐらいやっているんですよ。

―― 3週間ですか(笑)

片渕 その時は準備段階だから、テレコムの全員が『NEMO』に参加してるわけじゃないんですね。実働部隊は他の仕事をやっていて、現場の経験を積め、という事で、僕もそっちをやる事になって。高畑さんの準備から離れて、現場の仕事の方に回されたんです。
 しばらくして、もう一回『NEMO』の方に戻されて。その時は、監督か近藤喜文さんに変わっていました。その時は、演出そのものじゃなくて、カメラワークや撮影処理みたいなところを主に担当してくれと言われたんです。それで、一部で有名な『NEMO』のパイロットフィルムの制作に関わる事になったんです。(注4)

―― その時の片渕さんの具体的な仕事は、撮影の設計なんですか。

片渕 それもしてるし、近藤さんがストーリー作りでアメリカに行った時に、アシスタントみたいな事もして。その後、またスタッフの入れ替わりがあって。今度は大塚康生さんが監督になって。大塚康生さんからの誘われ方も違うんですよ。「あんたはレイアウトをとるのが巧いから、演出のレイアウト関係の仕事をやってほしい」と。今度は大塚さんと共同監督みたいなかたちで、準備を始めて。大塚さんと相談しながら、僕がストーリーをまとめて作っていってたんですけども。その当時の僕は、まだ……。

―― 年齢的にも20代前半か、中盤ですよね。

片渕 うん。そういう全くキャリアがない者が作ったためか、その案も通らなかった。でも、僕らとしては「通らなかった」じゃ済まないわけですよね。それで、仕方がないので、僕らは『NEMO』から離れる事になった。それからしばらくして、僕はテレコムを辞める事になるんです。

―― 『NEMO』のパイロットフィルムを観た時の衝撃、かなりのものでしたよ。僕は当時、東京ムービーで観せてもらったんですが、「こんな凄いフィルムがあるのか」と思いました。

片渕 ムービーが『NEMO』を釣るために、非常に巨大な撮影台を設計して据え付けたんです。それは1階の床を掘り下げて、半地下にして、上は1階の天井を抜いて、2階の天井まで届くものでした。

―― 半地下から2階まで?それは凄い。

片渕 他のものよりも、カメラの上下動のストロークが遥かに長くて。また、非常に大きいサイズの背景が撮影できる線画台があったり、マルチプレーンの台が付いてたり。それから、当時はまたそんなに普及していなかったコンピュータで動きを制御する、モーションコントロールの機能がついていた。これを最大限に活用して作ったのが『NEMO』のパイロットと『スター・ウォーズ』のパイロットだったんですよ。『スター・ウォーズ』は全部、密着マルチで撮ったフィルムでした。

―― 『スター・ウォーズ』の制作は、どこだったんですか?

片渕 それは、あんなぷる。

―― ああ,なるほど。当時の東京ムービー作品といえば、テレコムとあんなぷるが競い合って凄い作品を作っていましたものね。ちょっと話は変わりますが、現在、フィルムによるアニメーションが、ほぼ無くなりかけているわけですが、ゴージャスさとか、SFX的な効果で言えば、テレコム版の『NEMO』のパイロットは、日本のアニメーションにおける撮影の頂点のひとつじゃないですかね。

片渕 僕は、なぜか撮影設計みたいな仕事をする事ができたんです。僕にとっては『NEMO』のパイロットの尺を長くしたのが「大砲の街」なんです。

―― そのせいか僕には、片渕さんは「技術の人」という印象があるんです。後に『名犬ラッシー』や『アリーテ姫』で、「ああ、ドラマやテーマの人でもあるんだ」と思ったという(笑)。

片渕 『NEMO』の頃にもそう思われているところはありましたね。非常に大きな企画で、ゴージャスにスタッフを使うという話だったので、僕に演出の鉢が回ってくる可能性は少なかったんだけれど。カメラワークに関しては、僕が一番の適任だったみたいです。

―― 元々、撮影がお好きだったんですか?そんなに経験はないはずですが。

片渕 経験はほとんど無かったんです。大学生の頃に、アニメーションの撮影台というのは、どういうふうに動くのかというのを、想像していたんですね。カメラの何をどうすればどう映るのかという基本的な事は、仕事を始める前から割と詳しかったんですよ。

―― 興味もあったわけですね。

片渕 うん。その興味というのは何かというと、宮崎さんとか高畑さんの作品……特に高畑さんの『太陽の王子ホルスの大冒険』では、複雑なクレーンを使ったカメラワークがあるんですね。

―― ヒルダが登場するところとか、凄いですよね。

片渕 大カマスが最初に見えるカットとかもね。学生時代にそういうものを観て、凄い魅力を感じていたんです。で、ああいうものを撮影するには、どういう機材が必要で、どういう手だてをして、どういう素材を揃えれば撮れるのか、と考えていた。学生時代には必要な機材が手に入らなかったので、想像するしかなかった。

―― 『NEMO』のパイロットでは、思う存分それができたわけですね。

片渕 『NEMO』の時は、撮影台も同じ建物の中にあって、撮影のスタッフもそこにいたので、撮影の現場を見ながら相談しながら進める事ができた。その事が大きかったと思う。カメラワークの設計自体は、実はそれほど大変だったとは思ってないです。それまでの自分が想像していた範囲内の事をやっているにすぎなかった。

―― 『NEMO』のプロジェクト自体は、片渕さんにとっても大きなものなんですよね。

片渕 大きいです。

―― 20代のかなりの日々を占めてるわけですし。一言では……。

片渕 いや、僕なんかよりも、もっと『NEMO』の影響が大きかった人はいますしね。自分自身のダメージになったかというと、そうでもない。ただ、参加していたスタッフの考えが上の方で上手く酌み取られないで否定されてしまって、腹が立ったとかね。そういう事を沢山、味わったのは確かだけども。自分が責任を取るべき立場じゃなかったので、本当は気が楽だったのではないかと思う。

―― かなり大変な現場だったわけですよね?

片渕 大変でしたねえ。出てくる名前が、例えば脚本がレイ・ブラッドベリだったり、美術設定がメビウスだったり。藤岡さんが、突然「音楽はジェリー・ゴールドスミスがいいか」って言い出すような、そういうところでしたからね。

―― 藤岡さんの夢そのもの、みたいな企画ですからね。

片渕 その時間の中だけを取ってみると、徒労なんだろうけども、僕にしてみればパイロットを作る事を経験する事ができたし、自分が大塚さんとやった時に考えたストーリーのタネはいまだに持ってるし。他に関わった人達も、その時に考えたものを、それぞれ自分の作品にうまく反映して使っているように見受けられるし。そういう意味でいうと、『NEMO』の準備の日々が徒労だったとは思わない。その事が、日本のアニメーションに何かの熟成をもたらしたのも、ひとつの事実だと。

―― 『天空の城ラピュタ』にも反映されているんでしょうね。そういう意味では『NEMO』はムダではなかった?

片渕 ムダではなかったと思った方がいい。

―― 片渕さん自身は『NEMO』から離れた後、アニメ界で演出家としてやっていく事になるわけですね。

片渕 とりあえずは、フリーの立場なんですよね。まず、『愛少女ポリアンナ物語』の絵コンテの仕事を紹介してもらったんです。それで、始めたんですが、絵コンテのローテーションに上手く乗れたとしても、それだけでは、なかなか食べていけない。それから、現場を持たない演出家というものに疑問を抱いたんですね。フリーで絵コンテをやるという事は、将来的に自分が作品を作る事につながらないだろう。それで、どこかのスタジオに潜りこもうと思って、虫プロに行ったんです。
 それで、『ワンダービートS』のシリーズ途中から、僕は演出チーフにしてもらって……。虫プロは、そういうテレビシリーズもやっていたけども、親子映画の長編を作る事に意欲を燃やしていました。それは必ずしも制作予算が多いとはいえないけども、映画ではあるんですよね。僕はそこで映画の企画やシナリオとかをやっていた時間が、かなり長いんです。そうやって、自分の作品を作れる地盤を固めようと思っていたんです。だけど、どうも現実的な壁の方が大きくて、なかなかかたちにならなかったので、とりあえず一時撤退しようという事で、虫プロから離れてSTUDIO4℃へ行くんです。

―― ええ? そこで4℃になっちゃうんですか。

片渕 『魔女の宅急便』は、虫プロにいる間に出向で参加しているんです。

―― ああ、そうなんですか。

片渕 たまたま『魔女の宅急便』の時に、ジブリの鈴木敏夫さんからお誘いを受けて。それで、出向で行って。帰ってきて、また虫プロで映画のシナリオ書いてたりするんですよ。

―― 『うしろの正面だあれ』は虫プロ時代の作品なんですね。

片渕 そうです。それは『ワンダービート』の有原(誠治)さんが監督をされた作品で。初めは、レイアウトのチェックをやるはずだったんだけど、結局、レイアウトの9割ぐらいを描く事になっちゃったんですよ。で、それはそれなりに高評をいただける仕上がりになった。ちょっと余談になると、それを観て僕を気に入ってくれたのが、マッドハウスの丸山(正雄)さんなんです。丸山さんは、そういうあまり人が観ないような作品をきちんと観てる。

―― そうですよね。本当に凄い。

片渕 プロデュースというのが、自分の気に入った人間を集めてくる事だとしたら、それに長けている。そういうアンテナの広げ方が凄いなあ、と思う。

―― 多分、丸山さんが、この業界で一番でしょうね。田中栄子さんも凄いけど。

片渕 『魔女の宅急便』の時に、制作担当だったのが田中栄子さんなんです。その当時のジブリは1本の制作が終わったら、チームが解散していたんですよ。それで『宅急便』のスタッフが集まって作ったのがSTUDIO4℃なんです。僕が虫プロを離れて、4℃へ行った時に「これをやりましょう」と田中さんが持ってきたのが『アリーテ姫』の企画なんです。

―― それは時期的には。

片渕 1992年です。勿論、その間に生活していかないといけないというのもあるし、自分としても面白いものを作るために腕を磨きたいと思っていましたから、武者修行みたいに『チエちゃん奮戦記 じゃりン子チエ』や、『ナンとジョー先生』、『七つの海のティコ』に参加しまして。アニメーションの世界って、武道の世界に似ているように思うんです。鍛えて技を覚えておかないと、いざという時、使い物にならない(笑)。
 そういった作品をやりつつ、『アリーテ姫』の準備を進めていた。その頃、4℃で大友さんが『MEMORIES』の「大砲の街」を始めていたんです(注5)カメラワークが非常に複雑な作品になるのは分かっていて、「それに興味はあるか?」と訊かれたんですよ。その時に、大友さんが廊下のような縦に長い空間をカメラがグーッと移動していくカットを作りたいんだけど、どうやっていいか分からないと言ってた。自分としても『NEMO』のパイロットで、盛んに色んなカメラワーク使ったけども、そういう事はできなかったので、それに関しては興味があったんです。それから、たまたま僕は大砲に関する資料をいくつか持っていたので、それを貸したりしているうちに「大砲の街」に軸足を移していったんですね。「大砲の街」では大きなドームの中に巨大な大砲があるんですが、その大きな空間を実感するために、羽田の全日空の整備格納庫にロケハンに一緒に行ったところから完全にスタッフになった。大友さんと、田中栄子さんと、小原秀一さんと、僕と4人で行って。その4人から始めて「大砲の街」を作った。
 「大砲の街」が終わったら、もう一度、『アリーテ姫』の準備に戻るんですけど。これがまた、現実的な問題が色々あって、なかなか上手くいかない。それで、ちょっとブレイクを入れましょう、という事になった。『アリーテ姫』はその当時、企画として成立していなかったんですね。どういう事かと言うと、予算が発生しない事には映画は作れないし、準備もできないんですよ。僕らだって準備だけに全時間を費やしてると、自分の生活ができなくなってしまう。それで「とりあえず、貯金をしてお金を貯めましょう」と(笑)。

―― 『アリーテ姫』を作るために?

片渕 世知辛い話でいうと、そういう事なんですね。僕としては、もうちょっと現場経験を踏みたいという気持ちもありました。それで外へ出て、色々やり始めたのが95年かな。その時に紹介してもらったのが、マッドハウスと日本アニメーション。「ふたつあるけど、どっちへ行く?」と言われて、「この際だ。どうせやるなら両方やろう」と。それで、マッドハウスへ行ったら丸山さんが「どれをやりたい?」と言って、何本か仕事を並べてくれた。その中で、当時、僕が興味があった、生活に根ざした感覚に発想が近いように思えた『あずきちゃん』を選んだんです。日本アニメーションでは『ちびまる子』をやりました。『あずきちゃん』『ちびまる子』を月に1本ずつ作るというペースでした。それで、日本アニメに深入りしていって『名犬ラッシー』の監督をやる事になったわけです。(注6)
 それで『ラッシー』が終わったら、また『ちびまる子』と『あずきちゃん』に戻った。で、そうこうしてるうちに他の仕事も入ってくるようになって、同時に4本ぐらい仕事を持つようになったんですよ。相当なハードワークになって、さすがに体力的に限界かな、と思うようになった。自分もいい年になってきたし、量で仕事をするのもこれで終わりだ、次の事を考えようと思ったんです。その時期に、たまたま田中栄子さんも『アリーテ姫』を再開しようと思っていたので、今度こそ上手くお互いの足並みが揃って、そこから現在に至る、と。

―― 『ラッシー』が初監督の作品ですよね。この時点での集大成になるんですよね?

片渕 多分、そうなんだろうなあと思いますね。ただ、僕は『あずきちゃん』や『ちびまる子ちゃん』と同じような意識で作ったような気がする。それは、どういう事かというと、同じような暖かいムードで画面を作ろうとしていたという事です。『アリーテ姫』は、そこから次の事を考え始めている。

―― 『ラッシー』って、名作劇場初期の『アルプスの少女ハイジ』、『母をたずねて三千里』への回帰が見て取れるんですけども。これはどの程度自覚的に?

片渕 僕はね、日本のアニメーションで自分にとってのNo.1は何かと訊かれたら、『母をたずねて三千里』を挙げてしまうようになった。『未来少年コナン』は面白くて、それに引き込まれたのは確かなんだけども、『母をたずねて三千里』は、その時点の僕には到達できない目標のように思われた。

―― それは学生の時?『ラッシー』を作った時?

片渕 大学生の時です。東映動画系列の人達の作品を網羅的に観ようと思った時に、再放送で観た。『コナン』も凄い作品で、そのテンション等に関して追いつかないところは、当然あります。『三千里』の人間を見つめる目線や映画的な感覚は、どう真似していいかも分からなかった。それで、『三千里』を凄く高いところにある目標として置いていた。『名犬ラッシー』をやった時には、当然、そういうところへ近づいていきたいという気持ちは最初にありました。

―― 細かい話ですが、『ラッシー』で、サブタイトルが本編と同じ背景の上に出る感じなんかも、『三千里』っぽいな、なんて思ったりしました(笑)。

片渕 その当時、名作劇場ではサブタイル用のカットを用意している場合が多かったと思うんですよ。あれは、名作劇場では『赤毛のアン』の時に始まった事ですよね。それまでは、本編の画にサブタイトルが乗っていた。それに対して「こういうのもあるよ」という事で、『アン』の時に高畑さんが出してこられたものなんです。だからと言って、その後に、それを金科玉条のように守る事はない。むしろ、冷静になって考えれば本編の画にタイトルを載せるのも十分ありなんですよね。それで、そういう手法に戻ってみたんです。『赤毛のアン』の後の名作劇場は、『アン』の影響をもの凄く受けていると思います。

―― なるほど。

片渕 しかし、『ハイジ』や『三千里』の影響はあまり残っていない。

―― 『アン』以降に「名作劇場的」な表現が確立してしまったのかもしれないという事ですね。

片渕 例えば『ラッシー』の2話では、階段を落ちていく子犬をボールのように描いてみたりしたんです。それも「あれは名作劇場ではないんじゃないか」という声が上がったりもしたけれども、僕は「これも名作劇場なんだ」と思ってやったんですよ。

―― この前、『ラッシー』を見返して、『ハイジ』や『三千里』と方向が逆だと思ったんです。『ハイジ』と『三千里』は、アニメがテレビマンガと呼ばれていた時代に作られた生活アニメーションであって、作り手は「リアル」に向かって作っているんですよね。それに対して『ラッシー』はリアルから「漫画」に向かってるんですよ。

片渕 その向かってるベクトルは逆だけど、同じようなところに落ち着けれはいいなと思った気がする。

―― 着地している位置は近いですよね。でも、『ハイジ』より『ラッシー』の方が、ちょっと漫画寄りになってる。

片渕うん。そうかもしれない。それは、TV局側が『ラッシー』のコンセプトとして、「ホームコメディ」という線を明確に出していたんです。だったら、ここまでやった方がいいんじゃないかという考えもありました。
 作り方の事で言うと、『ラッシー』は細部の描写に重きを置いて作ってたんです。ただ、その当時のテレビの視聴のされ方が、そういう作品に向いていなかったかもしれないという反省はあるんです。視聴者が食い入るように観るという事が、もうなくなっていたのかもしれない。

―― あ、なるほど。生活描写ばかりの『ハイジ』が成り立っていたのは、みんなが熱中して観ていたからだった。キャラクターの一挙一動を楽しんでくれる視聴者じゃないと、そういう作りは成り立たないんですね。

片渕 だったら、なおさら映画が作りたいな、と思ったわけです。

―― 失礼な言い方になるかもしれませんが、片渕さんには不遇の演出家という印象があるんです。これだけ才能があるし、良い仕事をしてきたのに、今ひとつ脚光を浴びない。あるいはせっかくのチャンスを逃す事が多い。『NEMO』もそうですし、最初は監督として参加するはずだった『魔女の宅急便』も、結果的には演出補になってしまった(注7)。初監督作品の『ラッシー』も放映期間の短縮で、作り切ることができなかった。

片渕 たまたまなのか、僕が悪いのか(笑)。確かに運がない仕事に関わっているケースが多いですよね。ただ、そんなに不幸だと思っているわけでもないんです。色々な作品に様々なかたちで参加できて、それはそれで面白かった。

―― で、いよいよ『アリーテ姫』ですね。これで始めて、自分が納得できるかたちで作品作りができたわけですね。

片渕 そういう事です。本来の自分が目指してたもののひとつが『未来少年コナン』のような、漫画映画と呼ばれる娯楽の殿堂。それから、さっきも言ったように、『母をたずねて三千里』で、高畑さんが「人間とは何か」という事をきちんと描こうとされていた事も、僕の中で大きな柱になっているんですね。『アリーテ姫』は「ちゃんと人間を描く」ってなんなんだろう……と考えながら作ってみた作品なんです。
 『母をたずねて三千里』は、僕らが中学生ぐらいの頃の作品なんですが、当時、同世代の友人が『三千里』を観て「まだ自分達に向けて語りかけてくれているものがあったんだな」と言ったんですね。現在、アニメーション作品が沢山あるけれど、そういう部分になかなか踏み込んでいかないように思うんです。世の中で誰もがぶつかる現実というものの大きさに対して、自分の心を保つためにエンタテインメントが必要なのではないか。勿論、エンタテインメントと言っても、その場しのぎのものではなくてね。『アリーテ姫』は、大きな現実の前で自分の存在が値打ちがあるのか知りたいと思ってる人の、気持ちに答えるような映画にしようと思った。

―― でも、それは昔は普通にやられていた事なのかもしれないですよね。

片渕 いつごろ?

―― 20年前とか、30年前とか。アニメに限らず、普通のドラマなんかが、若者に夢を与えたりしていたわけじゃないですか。

片渕 そういう意味で言うと、現在のアニメーションが、一般的な若者向けドラマではないんですよ。違うものになってしまっている。それとは違うものに強引に育て上げてきてしまったので、アニメーションがそろそろ、少し別な……言うのは面はゆいけど、成熟したかたちになるべきなんじゃないかなあ……と。

―― 話を戻しますね。片渕さんは『コナン』で漫画映画を志した。漫画映画を作りたかった気持ちは、『名探偵ホームズ』や『ナンとジョー先生』等に現れていますよね。『アリーテ』も、漫画映画的な部分はあるわけですが。

片渕 漫画映画というものを、どう考えるのかという事に関して、まだ自分の中で結論が出てないんです。ただ、それが大きな意味でのファンタジーというか、空想というものの価値を大事にするという事だとすると、『アリーテ姫』にとっても、漫画映画な部分は大きいと思う。
 勿論、リアルなだけの話ではない。と言って、甘ったるい、空想だけのファンタジーでもない。そういったものが、現実的な人間描写と一緒になって生じる不思議な雰囲気を持ってるのではないか、と思っているし、観た人の中にそう言ってくれる人も大勢いるんです。だとしたら、「若者向けの青春ドラマ」であると同時に、そういう部分も提供できているんじゃないかと思います。

―― 『アリーテ姫』の次は、いよいよ本格漫画映画を作る?

片渕 『名犬ラッシー』で、ある程度、漫画映画的な大らかな気分を描いたような気がする。その次のものを探そうとしてたのが『アリーテ』であり、これから作るものだったりするかもしれない。何本か作ってるうちに、もう一度漫画映画的な方向に向かって進む事もあるだろうし、そうじゃないところに道を見つけていく事もあるだろう。
 それから、作品を作る上でファンタジーと現実のバランスが昔より難しいと思うんですよ。エンタテインメント業界が生み出すファンタジーというか、物語は、現実から切り離された別の空間で成り立っているものが多すぎると思う。

―― アニメとかゲームとか、ですか。

片渕 うん……。もっと現実に近いものを求めている人も大勢いるわけで。他の作り手がそういった事をやらないのなら、自分はそういう事をやっていこうと思っているんです。『アリーテ』は、そういう作品として作ったつもりだし、その次は、また全然違うかたちになるかもしれないけど、現実というものの意味というのを、作品の中で捕まえていきたいと思っています。



(注1)
池田宏は『どうぶつ宝島』『空飛ぶゆうれい船』等で知られる演出家。月岡貞夫は『みんなのうた』等で活躍するアニメーション作家。東映時代の作品に『わんぱく王子の大蛇退治』『狼少年ケン』等がある。

(注2)
今回の記事中の漫画映画とは、60年代の東映動画の劇場長編に代表されるクラシックなスタイルのアニメーションを指す。

(注3)
『LITTLE NEMO』の制作は長期間に渡っており、内外の多くのスタッフが参加している。記事中に書かれているように、その間にはスタッフの交代も多い。本編は89年に完成し、公開されている。

(注4)
『LITTLE NEMO』は、月岡貞夫監督、近藤喜文監督、出崎統監督によって、3本のパイロットフィルムが作られているが、ここで話題になっているのは、近藤喜文監督のバージョン。そのイマジネーションと技術の高さは驚くべき程のもの。そのエッセンスは完成した本編にも活かされている。なお、近藤監督版、出崎監督版のパイロットは『LITTLE NEMO』のLDBOXに映像特典として収録されている。

(注5)
『MEORIES』は大友克洋総指揮によるオムニバスアニメーション。彼が参加した「大砲の街」はその1本で、20分の本編を1カットで処理した大変な作品。

(注6)
『名犬ラッシー』は、日常的なドラマを通じて人生の機微を描いた好シリーズ。ある意味、正統的な名作劇場の作品であり、同時に現代的な感覚の作品でもあった。詳しくは本誌96年11月号(VOL.221)を参照。

(注7)
『魔女の宅急便』は最終的に宮崎駿監督で制作されたが、制作初期には若手スタッフを中心に制作するというプランもあり、彼が監督として進められていた時期もあるのだそうだ。