COLUMN

第34回 登場人物たちの履歴書

 前に、「鬼いちゃん」こと、すずさんの兄・要一の年齢を考えたら、それを元にある程度どんな輸送船に乗って、南方のどこでどうなったかわかってしまったような気がする、というようなことを書いた。
 こうのさんの「この世界の片隅に」は、そういうところからも「現実と地続き」感があっておもしろい。
 そうだ。広島や呉の町に歴史があれば、それぞれの個人にも歴史があるのだ。

 すずさんの同級生・水原哲の兄は、「13年2月」の回が四十九日間近、「18年12月」の回で七回忌であるように描かれている。ということは、亡くなったのは昭和13年1月ということになる。このとき海軍兵学校在籍だったとすると海兵68期になるのかな。周作さんと同い年ということだが学年はひとつ上だったような気がする。早生まれだったのかもしれない。
 手元に「大呉市民史」という、当時の呉の新聞記事を書き連ねた、この仕事をする上でちょっと得がたいような本があるので、13年1月の日付あたりを見てみる。

宇品沖惨事
 二日午後四時ごろ、江田島汽船みどり丸(一四トン)屠蘇客およそ八〇名を乗せ能美島に向かう途中、峠島付近で強風を受け右舷に傾き約五分で沈没、三日正午までに五一名救助(うち一一名死亡)、同朝呉鎮掃海艇数隻回航、潜水夫を入れ、船体を引揚げ、船室内から二一死体を収容、なお不明九名。

 峠島は、独特な三角のシルエットの似島のちょっと東の海の上。こうのさんのマンガはここまで調べて描かれている。
 「大呉市民史」には、この調子でずっと戦時中のことまで書き連ねていてくれることを期待したかったのだけど、残念ながらこの本の記述は昭和15年いっぱいで終わってしまっている。当時の新聞社の人が新聞記事から抜き書きしていたという原稿はまだまだ残されていたらしいのだが、あまりに独特の書き文字であり過ぎて、書いたご当人が亡くなってしまってからは解読に苦しむ状況だったという。それでもなんとか15年ぶんまでは本にしたけれどもうこれが限界、「疲れてしまった」と、編者の人があとがきでこぼしている。残念。

 さて、その水原哲は「18年12月」の回で水兵服を着ていて、「19年12月」にも水兵服を着ている。
 哲は、高等小学校を卒業して満15歳の5月1日に海軍に入ったのだとしたら、16年の志願兵「十六志 前期」ということになる。17年8月には上等水兵、18年2月には水兵長、19年2月に二等兵曹に進級する。二曹になるともう下士官だから水兵服なんて着ない。「十六志 後期」だったとしても、19年12月になってまだ水兵のままということはない。ということは、尋常小学校の学級内でいちばん体の大きかった哲が実は生まれ月がずっと遅かったか、もしくは海軍の中で何かをやらかして進級が遅れていたか、ひょっとしたら判任官である下士官への昇任を自分の側から拒否したか(そういう人も実際いたのだった)などということが考えられてしまう。「何かやらかして進級遅れ」説も「進級拒否」説も、どちらもこの人物の人物像に深みを与える感じがするので、そうした方向で心覚えしておこうと思う。
 彼が乗っていた巡洋艦青葉は、19年10月23日マニラ湾口南西70海里のところで潜水艦からの雷撃を受け、右舷に魚雷命中。大傾斜、航行不能になり、僚艦の軽巡洋艦鬼怒に曳航されてマニラに入港。さらに空襲を受けつつ応急修理後、12ノットの低速しか出なくなったヨタヨタした体で12月12日呉に帰りついている。哲が語る「マニラで負傷」というのはそういうことなのだった。
 この青葉には、哲が乗り組むよりずっと前、敵艦に向かって「ワレアオバ」と発光信号で名乗ってしまい、砲弾を浴びまくったつらい過去がある。なんとなく哲には青葉の信号兵になってもらおうと思ってしまった。ということならば、マニラの前にいたシンガポールあたりで哲が着ていた防暑服の名札には、信号を司る航海科第七分隊の「七」を書いておくことにしようか。

 周作さんのおとうさん北條円太郎氏の経歴は、原作第9回「19年5月」と第30回「20年5月」を合わせ読むと大筋はだいたいわかる。軍縮でいったんクビになったあと、海軍広工廠航空機部に再入廠して、16年10月1日付でこの工場が独立して第十一海軍航空廠となってからはずっとその発動機部に奉職している。近所の堂本さんのセリフでは、どうも「海軍技師」であるらしい。奏任官だから士官の位に相当する。
 周作・円太郎というこの父子はともに海軍の文官なのだけれど、息子の周作は制服(文官従軍服)を着ていて、おとうさんは普通の国民服乙型を着ている。というのは、周作は法務の仕事なので、軍法会議の権威を示すために正規の制服を着用しなければならない決まりがあるからのようだ。周作は下っ端の下士官待遇の判任官三等でしかないのだけれど、この制服は支給されるものではなくって士官並みに自腹でオーダーメードしなければならないのだった。それではあまりにかわいそうということで、あるいは、それでは制服がまともに着られなくなって示しがつかなくなるために、制服が必要な文官には、17年秋に一度服装手当110円が臨時支給されたりしている。年齢からいって周作はこの金をもらっている。一方で、そうした縛りのないおとうさんの方は私服で通勤している、ということなのだった。
 おとうさんは夜勤が長かったり、ときに徹夜仕事で朝帰りしてを繰り返しているのだが、ということは航空発動機の生産現場の人であるような気がする。この時期、十一空廠発動機部が作っていたのは、と思い返すと、そうだ、中島飛行機で設計した「誉」エンジンだった。「誉」はちょっと厄介なところもあるエンジンでありつつ、海軍の主力航空機に欠かせないものだったので、これは就労時間も押せ押せ、毎日の苦労が耐えなかっただろう、と思う。
 ちょっと以前に、この仕事場があるのと同じ杉並区内でその昔中島飛行機の荻窪製作所だった建物が取り壊されることになったとき、「誉」のものらしい設計図が出てきて、国立科学博物館で鑑定会が開かれて、そのとき端くれに混ぜていただいてしまったことがある。このとき見たのは、設計した現場に使わずに保管されていたものらしく、まっさら過ぎる図面で、妙な違和感があった。おとうさんが使ってたものにはずいぶんと赤い書き込みやらが重ねてあったのだろうと思う。おとうさんの作業服もきっと試運転で噴油を浴びて油まみれだ。

 軍艦。戦闘機のエンジン。そうしたものに重ねられた「男の子たち」の想いは虚しく果ててゆく。残されるのは、それでも毎日ご飯を炊き続けるすずさんたちの想いだ。これは永久に尽きることはない。

 ところで、15年3月に高等小学校を卒業してから(すずさんは尋常のあと女学校に進学するりっちゃんに、自分はまだ同じ学校に残るようなことをいっているから、間違いなく高等小学校までは行っている)、その後すずさんは18年12月までのあいだ何をしてたのだろうか。海苔漉きは実は冬だけの季節労働だったりしてしまうのだった。
 こうのさんに尋ねてみたら、
 「貝とか売ってたんじゃないでしょうか?」
 という。
 江波に住んでおられる方に聞いてみても、やっぱり、
 「貝とか売ってたんじゃないでしょうか?」
 と、まったく同じだった。
 昔の雑誌とか眺めていたら、江波からは広島市内まで小イワシの行商に出る人もあったようだった。
 ということで、すずさんは広島市内に出かけては魚介類を売ってたのだろうなあ、というあたりで。すずさんはいつでも、てくてくてくてく、てくてくてくてく、歩くのだった。

親と子の「花は咲く」 (SINGLE+DVD)

価格/1500円(税込)
レーベル/avex trax
Amazon

この世界の片隅に 上

価格/680円(税込)
出版社/双葉社
Amazon

この世界の片隅に 中

価格/680円(税込)
出版社/双葉社
Amazon

この世界の片隅に 下

価格/680円(税込)
出版社/双葉社
Amazon