COLUMN

第4回 わたしのことは置いていってください

●2010年8月25日水曜日(20日目)

 企画書(めいたもの)を携えて、原作の出版社に赴く。
 丸山さんが所用で来られず、自分1人で、対応いただいた方々に趣旨を説明する。あしらわれたり蹴り出されたりすることがなかっただけでもほっとするのだが、和やかに相手していただいて安らぐ。
 「今、ちょうど広島の廿日市でこの原作の原画展が開かれてるんですよね」
 という話になる。8月5日から29日がその会期なのだが、広島は遠い。

●2010年8月26日木曜日(21日目)

 今回の作品が無事に成立するとして、その主な舞台は広島県呉市になる。呉は海軍の軍港があった町で、それゆえくりかえし空襲に見舞われている。この仕事ではそうしたことも描くことになるはずだ。
 空襲、ということではかなり以前、虫プロダクションの映画『うしろの正面だあれ』(有原誠治監督)にスタッフとして携わったことがある。このときは全カット数の9割がたのレイアウトを1人で描いていた。『うしろの正面だあれ』は東京空襲を題材にして、実在の人物を描くある種の「実録」であり、今回自分たちが作ろうとしているものは登場人物もすべて架空のフィクションだ。けれど、呉を襲った「昭和20年3月19日空襲」「5月5日空襲」「6月22日空襲」「7月2日空襲」「7月24日空襲」「7月28日空襲」などは現実のものでもある。
 『うしろの正面だあれ』のレイアウトを描きながら、思い煩ったのは、自分が果たして実際の「昭和20年3月10日空襲」にどれほど近づけているのか「わからない」ということだったりした。この映画には、制作途中からスタッフに加わったので、自分自身としての準備作業がまったくと言ってよくできておらず、例えば、3月10日深夜の天候についてもまるで把握しないままその光景を紙の上に描くことになってしまっていた。風が強かったといわれているが、雲はあったのか、あったとしてどれほどの雲が空を覆い、風に流れていたのか、寒かったのか、冷たかったのか、暖かかったのか、その時点での自分はまったく知らずにいてしまっており、たいへん心許なかった。
 ただの絵空事を重ねてしまうのならば、いくらでも針小棒大なものも作れてしまう。今度やるならば(空襲の実録物をやる機会はほぼないだろうとは思っていたが)、せめてお天気くらいはちゃんと把握して臨みたい、と、思っていた。
 この日、8月26日、せめても当時の状況を知りたいとひもといていた海軍の記録文書の中に、当時の天候の記録があることに気づいている。呉の天候、気温、視程、場合によっては雲の形、量、雲高などもわかる。
 すずさん(という少女が主人公だ)が肌に感じていた日々の空気がわかるのだ。
 空襲の日の天候がどうのという前に、彼女が過ごした日常の1日1日に意味がある、という作品に挑もうとしてるこのときに、毎日の肌ざわりを得られたのだとしたら、そのことは自分にとって大きい。
 昭和19年から20年の毎日のお天気調べをして、1日1日の出来事の「日記」を作る作業を始めてみる。

●2010年8月27日金曜日(22日目)

 新幹線で山口県防府市へ行く。
 『マイマイ新子と千年の魔法』では、製作委員会の一角としてKRY山口放送に加わってもらっていたのだが、この放送局は日本テレビのネット局であり、28日夜から29日かけて日テレの年に一度の大行事、『24時間テレビ』が行われることになっていた。この長大な番組には地方局枠があって、ローカルなコーナーも設けられている。この年のKRYのローカル枠では「マイマイ新子と千年の魔法 感想文・感想画コンクール」がプログラムされていた。感想文の審査員は原作の高樹のぶ子さんで、感想画は不肖僕がつとめさせていただく。
 KRYのある徳山にではなく、防府に赴いたのは、かねがねお世話になっている防府の映画館ワーナー・マイカル・シネマズ防府で、28日に『マイマイ新子』の上映を特別にしていただけることになっていたからだった。話の後先からいえば、僕が24時間テレビのために山口県へ行く、ということになったとき、せっかく監督が来るのだから、上映を設けて舞台挨拶させましょうという話にワーナー・マイカル・シネマズ防府の西川亜希支配人が乗ってくださり、実現してしまったのだった。西川さんにはいつもいつもそんな感じでお世話になっていた。
 27日の夜は、防府市文化財郷土資料館館長の吉瀬勝康さんのご自宅に泊めていただいた。そもそも吉瀬さんが『夕凪の街 桜の国』のクリアファイルを抱えておられたことから今の事態が始まっているのだから、何かが一巡したような気にもなる。とりあえずの経緯をお話したところ、喜んでいただけた。

●2010年8月28日土曜日(23日目)

 ワーナー・マイカル・シネマズ防府で『マイマイ新子と千年の魔法』上映と舞台挨拶。
 舞台挨拶後に、新子と同じくらいの生まれ年のご婦人方から声をかけていただく。
 「あのシュミーズがよかったわあ」
 「そうなのよ」
 と、このご婦人方からいわれた。お医者の一人娘・貴伊子がよそ行きに身を包んで三田尻駅頭に降り立った場面のことだ。カメラが仰角のアングルをとったとき、スカートの中のシュミーズのレースがのぞく。
 「シュミーズなんてみんな穿けなかったから。あれつけてるだけで、あの人がいいとこのお嬢さんだってわかって。憧れてたのよう、シュミーズ」
 その後、徳山へ移動して、その夜は新幹線のホームが窓外の目の前にあるホテルの部屋で眠る。

●2010年8月29日日曜日(24日目)

 テレビへの出演の合間に、高樹のぶ子さんから、長子さんのモデルになったお母上のことをうかがう。長子さんはすずさんとほぼ同じ生まれ年で、結婚した年齢もよく似ている。
 高樹さんのご両親は初対面で見合いして、防府の料亭で結婚式を挙げた。その後、海軍航空隊の予備士官だったお父上の勤務先近くの下宿の一部屋に小さな所帯を構えている。このあたりのことをモデルに空想を膨らませて小説化した高樹さんの『燃える塔』には、勤務先を「O基地」と記してあった。
 「そのO基地というのは?」
 「築城です」
 大分基地かとも思っていたのだが、福岡県の築城海軍航空基地だった。終戦時には福島県の郡山海軍飛行場におられたという。「終戦後、汽車で防府へ戻ってくるのがたいへんだったそうです」
 そでにのぶ子さん(新子ちゃん)は身ごもられており、あるいはつわりの激しい時期だったかもしれない。そして、終戦後の列車状況は過酷だったはずだ。
 自分たちの出番が終わり、高樹さんともどもタクシーで徳山駅へ向かう。広島廿日市の原画展はこの日が最終日、17時までだ。諦めていたが、今から駈けつければギリギリ間に合うのではないか。賭けだ。
 「高樹先生、申し訳ありませんが」
 「ああ、わたしは大丈夫。駅の喫茶店で博多行新幹線待ちますから。わたしのことは置いていってください」
 挨拶もそこそこに、東へ向かう新幹線に飛び乗る。
 広島で降りて、駅の窓口で東京まで買ってもらっていた新幹線の切符を、廿日市に寄って途中下車する切符に換えてもらう。駅員の人が追加料金の計算に手間取り、何度もやり直す。見れば、廿日市へ時間内に到着する電車の出発が迫っている。焦る。
 ようやく精算が終わって交換なった切符をそこそこに握りしめ、広島駅の構内を走る。
 廿日市駅で降りたが、その後の道がわからない。タクシーに飛び乗る。
 16時40分。最終日の閉館20分前。かろうじて間に合う。
 この3週間半ほど繰り返し読み続けてきた物語の原画が、壁面に並んでいる。圧倒的なディテールが、凝らされた表現が、出版物の判型に収めるために縮小される前の形、原型のままそこにある。